日本では男女雇用機会均等法が1985年に制定され、86年4月から施行されました。その後、何度か改正されています。

  1. 1972年(昭和47年)7月1日 – 「勤労婦人福祉法」
  2. 1986年(昭和61年)4月1日 – 「雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保等女子労働者の福祉の増進に関する法律」
  3. 1997年(平成9年)10月1日 – 「雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保等女性労働者の福祉の増進に関する法律」
  4. 1999年(平成11年)4月1日 – 「雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保等に関する法律」
  5. 2007年(平成19年)4月1日 – 同法改正法施行

この成果は出ているのでしょうね。私は英語を話すので、ワーママだとかシンママという不思議な略語には抵抗があるのですが、こうした名前が通用するほどに、女性は働いているのでしょう。兼業主婦・専業主婦よりはいいのかな?

アメリカにおいてWomen’s Liberationは参政権を獲得後、さまざまな形で展開されてきていましたが、African-American Civil Rights Movementの大きなうねりを利用し、その最中に大きな爆発を待つべくして、1970年代後半にフルブルームとなりました。

私が渡米した1988年には、housewife という呼び方は少し攻撃的だとされており、homemakerと呼ぶようになっていました。その呼び方のこだわりに、私が違和感を覚えたことはなかったです。なぜならば、私は懸命に英語を学んでおり、なぜにこのような使い方なのか?を、やたらと謙虚に学んでいたのです。

1990年代に入ると、Silicon Valleyでは働いていない女性はあまり見かけませんでした。そりゃー、家の中にいるのだから、スーパーくらいでしか見かけませんよね(笑)。私は、1988年に日本語を教えるアルバイトに行っていたのです。最初に近距離で見たエリート一家は、University of San Francisco の放射能科の部長教授のお家。それは、ESLの先生が紹介してくださったもので、夕ご飯をご一緒したり、パーティーに招いていただいたり、と、すごいもので。Back to the Futureの音楽を担当した、Huey LewisがMill Valleyのご近所に住んでいたのです。当然、そのあたりは閑静で高い住宅街でした。その奥様のMimiは、「専業主婦ではいたくない。働く女性でいたい」と、金額ではなく、アパレル関連で働いていました。息子さんたちは、大学生と高校生で、お家には、ピンポンルームとプールバーがあるすごい豪邸で、ご夫婦の寝室は、ドアの仕切りなどがないバスルームつきの斬新なデザインだったのです!キッチンだけで、私が住んでいた東京調布の家の居間とキッチンがすっぽり入ってしまうくらいの大きさでした。ダイニングエリアやヌークは入れませぬよ (・・;)

これは私にとって、ものすごいカルチャーショックで、「ヒトとしての品位のために働き続けるのだ」という強い意志を感じましたね、初めて。そして、私もそれがあるべきな姿なのだと自分に重ねていくのです。けれども、決定的な違いは、私は貧乏出身だったので、「働かなければ食べて行けぬ」だったのに比して、彼女の場合は、「ご主人のお金で充分食べられるのに自己表現や人生の哲学として働き続ける」ということだったのですね。その前提にすでに脱帽でした。

自分が自分であるために働くことと、お金を得るために働くこと。この差を見せつけられたのが、渡米した1年目です。

その後、大学に戻ってからも移民史・労働史などなどを学ぶのですが、やはりヒトは根底として、「食べる糧を得るために働く」のですよね。ここを忘れてはいけないのですが、けれども、やはりヒトとしての在り方・立ち位置をしっかりと示すためにも、働き方というのは大切なのです。

しかも、Mimiは、自分の食い扶持だけは自分でしっかり働かなければ、だんなさまへのプレゼントは私が働かなければ、と思う人だったのです。

このように、アメリカでは富裕層にはたくさんのチョイスが生まれます。究極のチョイスであるかもしれないことを、ゆとりの中で冷静に考えることができるわけです。苦しくないからいい、という程度のゆとりではなく、本気で自分の人生について考えてから結論を出して、トライして、うまく行かなかったら次の選択肢を考えることができるわけです。

30代から70代までの方々で、劇的に自分の生き方を変えた人を、私は5-6ダースは見てきました。え?その転身あり?ってやつです。その中には女性もたくさんいて、離婚や流産や子育て、介護問題や子離れなど、いろいろな機会での節目に、自分の選択をしっかりする人と、食べるために働く人と、大きく二極に分かれているように見えます。

そして、その金高がいくらなのか?幸せを得るためにどの程度のお金が必要なのか?などと考えるのは、個人の価値観なので、ぜひともみなさまにも哲学していただきたいところです。